2022年7月8日、元内閣総理大臣で衆議院議員の安倍晋三が銃撃されて死亡した事件が発生して以降、事件の背景に容疑者に関わる某宗教団体の存在があることが明るみになるとともに、政治家と某宗教団体との親密な関係が社会的な問題となっている、ということは皆様も周知のことであります。
そこで今回は政治と宗教は分離できるのか、いわゆる政教分離の問題について私見を論じてみたいと存じます。
私はこれまでに政治資金パーティーをはじめ政治家が主催する会合に何度も参加してまいりました。
そこには政治家とよばれる議員の支援者(と、特に関心もないが勤務先に命令されて参加する人々)が集い、飲食に各種アトラクションで会場は大盛況、やがて代議士の登場に(熱狂するふりをしている人も含んで)熱狂し、終盤にはその代議士を次の選挙にも絶対に当選させようと参加者全員に呼び掛け、結びは三本締め、というような、一通りのパターンがきまっているような印象が残るものでありました。
加えて、ステージで力強く演説する議員は教祖か宣教師、熱狂する参加者は信者のようであり、お布施や上納金などはないものの、代わりに選挙での投票を促される・・・あたかも宗教的な印象さえ感じられる集会でもあったのでした。
余談ですが、私は近年の政治家を皮肉を込めて「政治屋」と呼んでおります。
かくして、私は政治と宗教は似ているもので共通するところが多いと考えております。ついては、政治と宗教は分離することが難しいものなのだと割り切ることも必要だと考えています。
歴史的に見ても洋の東西を問わず、政治は宗教を利用し、宗教は政治を利用してきました。西洋でいえば、古代には国名そのものが政教一致している神聖ローマ帝国もありましたし、十字軍の遠征もありました。また、中世にはカトリックとプロテスタントが対立してそれぞれが政治勢力と宗教戦争が繰り返されてきました。
日本でも、天皇や氏族の祖神を祀る、日本固有の宗教である神道があり、2000年に当時の内閣総理大臣であった森喜朗氏が神道に関係する国会議員の懇談会(この懇談会もいかがなものかと思いますが)での演説の中で「日本は神の国であるぞ」と発言してしまった、いわゆる「神の国発言」もあって、やはり天皇を神聖な存在として中心において政治を行ったことがあったのは確実です。また、奈良の東大寺にある廬舎那仏像、つまり奈良の大仏や、全国に設置された国分寺、国分尼寺は、当時の聖武天皇が仏教の力を使って社会不安を取り除いて国を安定させたいと考えたことによるもの、というのは中学生の日本史の授業でも習うことでありました。このことから政治は宗教の力を使い、そして宗教の側からも政治が布教の環境を整備してくれたことが窺い知れるわけです。
何よりも、そもそも「政」の字の読みは「まつりごと」、つまり祭事とにもつながるのであります。
しかし、政教一致が行きつく先には異教徒の弾圧や勢力拡大のための軍事侵攻、戦争をもたらし、人命を守るための宗教がやがて殉教を美徳とするものにすり替えられてしまう。そうしてたくさんの人々が命を落とし、たくさんの人を不幸にしてしまったという不幸な歴史がありました。
政治と宗教を一言で言い表すことには語弊が伴うかもしれませんが、政治とは権力であり、宗教とは人心の掌握であるとも言えるでしょう。だとすれば、政治と宗教が結びつくということは権力が人心を掌握することであります。その時点では「ああ、上手くいったな」となるかもしれません。ところが一旦権力の衰退が始まったとしたら、あるいは権力を持つ者が年齢の進行とともにその体力が低下してきたら、権力者がその権力を維持するために「ああそうだ、私は人心を掌握しているのだからその人々を上手に使って権力の延命を図ろう」と考え、さらに「あなたたちは私を守りなさい。そうして徳を積みなさい」となどと自己犠牲を美徳として求めるでしょう。自己犠牲を最たるものは殉教であり、言い換えれば権力を守るために命を賭けることになる。そうなるとろくなことがない。第二次世界大戦、太平洋戦争では爆弾を抱えて飛行機ごと体当たりをする、死を美徳とする特別攻撃隊という過酷な部隊ができてしまった。近年でもイスラム原理主義組織による自爆テロも同じ理由と論法に基づくものでしょう。死んでご奉仕するなんて、亡くなった人はそれでも良いと思ったのでしょうけれど、遺族はどう暮らしていくのか。また攻撃に対する報復もあって、穏やかな日々は遠くなるばかりです。
政治と宗教をそれぞれに分けて、もう一度考え直してみましょう。政治は人々の生命と生活を守るために行うものであるはず。宗教もまた人々の心の安定、安心をもたらすものであるはず。しかし、政治と宗教が近づきすぎると、どういうわけかハレーションが起きて、人々の生命と生活、心の安定と安心を脅かし、結局は命が奪われてしまうことになる。だから政治と宗教は切り離さなければならない。これはもう当たり前のことですね。
ところが、私はこのコラムの前段でも申し上げたのですけれど、政治と宗教には共通するところがあるし、共通するものが感じられる。政治と宗教は似たもの同士。放っておくともっと近づいて仲良くなってしまうのだと考えなければならないでしょう。
そこで私たちには、政治と宗教が近づくことがないように常に意識し続けることが求められるのでしょう。政治と宗教が近づかないように常時監視し、また互いに近づかないような仕組みづくりをしなければなりません。民主主義の仕組みにおいては議会議員の選挙が定期的に行われるのでありますが、その選挙にも監視機能があるのだと考えております。だから、選挙は大切なのですよね。
政教分離については常に監視することが求められるのだということ、そして監視するのは国民、住民であるのだということはとても大切なことです。決して他人任せにはせず、我々が主体となって政治と宗教を監視し続けるのだということを、この機会に確認しておきたいと思っております。
なお、私は宗教団体が政治活動をすることはもちろん、宗教団体が特定の政党、特定の政治屋を支持することもあってはならないと考えております。なぜならば、いずれの場合も宗教団体、特定の政党、政治屋が互いに気を遣うことになりかねません。やがて利害関係の調整によって互いの歩み寄りが始まり、政教一致に近づくこともありえますし、あるいは政党、政治屋が神格化することになるかもしれません。そうなれば前述したとおり、人々の生命と生活、心の安定と安心を脅かすことにつながるからであります。その芽が出ることがないよう、種は種のままであるべきなのです。
また、現代では主に欧州ではキリスト教を、中東やアフリカ、アジアの一部の国ではイスラム教を、そして南アジアでは仏教を、それぞれ国教としている国があります。これらの国では国内の信徒が多いからという理由で国教を定めているという背景もあるようです。やはり世界においても政教分離が基本であるということを改めて補足しておきます。
さて、今回の結びとして、昨今の政治家と某宗教団体との関係ということについては、政治と宗教との関係とは全く異なるものであることを再確認しておきます。というのも、某団体は宗教団体とは一線を画する、別の団体なのだという認識が必要なのです。某団体は法人格は宗教法人となっておりますが、実態は営利を目的とした法人であります。宗教(しゅうきょう)団体ならぬ集金(しゅうきん)団体であり、そもそも営利を目的とした集団ですから特別扱いをする必要はございません。消費者を洗脳して高額商品を販売する霊感商法、マルチ商法の事業者はしっかり取り締まるべきであります。また、その内容によっては反社会的勢力として取り締まることも可能でしょう。そのあたりは政府、行政が監視して必要な措置をとるべきであります。
報道などによって某団体は宗教団体であるという前提が私たちの意識に刷り込まれてしまい、そのことが正確な判断を妨げてしまってはいないか。自戒も含めて、時には一歩引いて、時には俯瞰して、物事を見直してみることが必要なのだと思います。
2022.8.23
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