「インバウンド」の賞味期限

インバウンド。
言わずと知れた「訪日外国人観光客」を意味する言葉でありますが、この意味で使用されるのは主に日本だけであるように思っております。本来の意味としては「入ってくる」ということであって、inbound flightは「帰国便」、inbound laneは「上り車線」のように訳することができ、inbound marketingというと自発的な興味をそそるように働きかけるマーケティング手法のことであって、必ずしも観光業界に特化した用語ではありません。しかし、日本では特に外国人観光客を意味する言葉として、”inbound”というよりは「インバウンド」という和製英語化、カタカナ英語化しているような印象があります。
そこで今回はこの「インバウンド」(=外国人観光客)が日本語として定着していくのか、あるいは一時的な流行り言葉で終わるのかについて考えてまいりたいと存じます。

まず前置きとして、私は「観光客」という言葉を好みません。というのも、私は「観光」という言葉の定義がよくわからないのです。「観光」とは何か?簡潔に答えることができる方がいらっしゃれば教えていただきたいです。「観光」を「旅行」に置き換え、かくして「観光客」を「旅行客」に置き換えても文章全体から受け取る意味に大きな変化がなく、違和感を感じないのであれば(少なくとも私は全く違和感を覚えることはございません)、私は「外国人観光客」を「外国人旅行者」に置き換えてお話いたします。この点、ご了承いただければ幸いに存じます。

さて、外国人旅行者、特に中国からの旅行者による、いわゆる「爆買い」といわれた購買行動が注目されたのは2015年の2月であったように記憶しております。この時期は旧正月、春節期間でありました。この頃から多数の中国人富裕層が来日するようになり、旅行に関わる業界が中国人旅行者を含めた外国人旅行者ををターゲットにした免税店舗が急増したのでありました。この現象から全国的に猫も杓子も「これからは観光だ」という意識が強まり、加えて、2020年には東京オリンピック・パラリンピックが開催されるという絶好のタイミングであったことから、2020年には訪日外国人旅行者を4000万人に、さらに2030年には6000万人を目指すのだという「観光立国」という政策が推進されたのでありました。
しかし、私は、この「観光立国」という政策は素直に受け入れられるべきものではないと考えております。理由はいくつかありますが、まず第一に観光政策に積極的であるのは先進国ではなく、低開発国や新興国であり、他の産業が発展しないためにそうせざるを得ずにしていることだと考えます。第二には、観光政策は来訪者に対する恩恵を優先に考えるものになりがちであり、地域住民へのメリットは二次的なものになりがちになるということであります。第三には、上記第二にも関連することですが、観光政策は国際情勢や国家間の関係に依存しがちになり、そのため訪日外国人旅行者が多い国の要望・要求に合わせなければならなくなる懸念があるということが挙げられます。初めは外国人旅行者へのサービスと思ってやっていたことがいつか当たり前になり、コロナウイルス感染拡大以前にはオーバーツーリズムという観光公害が問題になっていましたし、さらに首都圏から遠く離れた地域においては外国人投資家による不動産購入が進んでいるということは周知の事実であり、このようなことが進むと外国人に地域の主導権を握られ、さらにいずれは侵略されることすらあるものと懸念しております。ここで大切なことは外国人旅行者との共生ということでありますが、共生するためには対等の立場であることが不可欠であると考えます。しかし、そもそも日本人は明治維新以降、外国人にコンプレックスがあるのか、他国語で話しかけられるとどうしても腰が引けてしまいます。その癖が直らない限り、共生への道は遠いでしょう。

さて、話がいろいろと飛んでおりましたが、今一度インバウンド(=「外国人旅行者」)について考えを巡らせてみると、どうも日本人にとっては外国人は特別な存在であり、大切に扱わなければならない存在と考えてしまっている、その傾向が強くあるように思われます。それは前出のように、明治以降の日本においては外国、とりわけ西洋の文化は日本の文化よりも優れた文化を持っているという意識が強く、そのため外国は追いつき、追い越すべき存在であると考えらえてきたことが背景にあるように思っております。しかし、私は日ごろから外国人旅行者と話す機会がときどきありますけれども、彼らは決して自分たちが優れた存在であるという考えはなく、むしろ日本、日本の文化には一定の敬意をもっていることがよくわかります。
他方では、日本人はアジア圏の国に対しては若干上から目線になってはいないでしょうか。近年のアジア各国は目覚ましい発展をしており、かつては発展途上国と言われていた国も、今では新興国と言われるようになっています。それでも、日本人の中には未だに「大東亜共栄圏」的な発想が根強く残ってはいないでしょうか。あるいは、私たちは未だにアジア圏の国々の人々は低収入で貧困であると思っていないでしょうか。私たちはアジアの国々のことをもっとよく知るべきであります。日本と他のアジアの地域との関係はまるで「ウサギとカメ」の童話の如く、日本経済が低成長である間に、アジア各国が著しく発展していることをしっかりと認識できているでしょうか。
また、ほとんどの外国人旅行者の方々は日本では彼らの母国語が通じないことを周知しており、その文化の違いも事前に理解して来ているようです(ただし、中国からの旅行者は中国語が通じないことをただ不便だと感じているようではあります)。
翻って、私たち日本人が外国を旅する時はどうでしょう。ほとんどの旅行者は外国の文化が日本とは違うことを事前に理解しています。食べるものや飲むものも日本とは異なりますし、言葉も日本語は通じません。それでも、私たち日本人旅行者は外国で特別扱いされているでしょうか。私たちは「インバウンド」と呼ばれているでしょうか。決してそのようなことはなく、私たちは「ただの旅行者」として普通に行動し、普通に旅を楽しみます。私たちは「インバウンド」という特別な存在ではないのです。

外国人旅行者が多い国を調べてみますと、1位にフランス、2位にスペイン、3位がアメリカ・・・となっているようです。主にヨーロッパ(フランス、スペイン、イタリア、イギリス、ドイツ)においてはイギリスを除いてすべて陸続きの国であり、外国人旅行者がいて当たり前の状況にあります。北海道に東京や大阪の旅行者がいるのと変わりません。私もヨーロッパ滞在の経験がありますが、外国を旅していて困るのが貨幣の両替です。国によってそれぞれに使っている貨幣の種類が違うので、外国の街には民間の両替商が普通にありました。日本でも江戸時代には金や銀など地域によって使う貨幣が違っていたので民間の両替商がありました。それと変わりません。
アメリカもランキングの上位にあります。アメリカは国が観光政策を行っているのではありませんが、まさに人種のるつぼということもあって、さまざまな国の、さまざまな人種が普通におります。一方、貨幣の両替ということでは、民間の両替所は少なかったように思います。しかし、アメリカではクレジットカードの利用が多く、現金は多少持っていれば大丈夫。必要に応じてATMで現金を引き出して使っておりました。
外国を旅行していて行きたいところがあると道を聞きますが、その際にも観光案内所が普通にあります。日本では、「観光立国」の政策の中で外国人旅行者向けの観光案内所が一気に増加しましたが、かつてはどうだったでしょう。道を尋ねる、といえば交番でした。派出所の警官が道を教えてくれたものです。それには、派出所の警官は安全対策を含めて地域の情報を豊富に持っていたために道を熟知していたということもあったでしょう。そこで外国語対応でもできていれば観光案内所としても機能していたことでしょう。
このように考えていると、日本は外国人旅行者に対して多かれ少なかれのコンプレックスがあり、今までに外国人旅行者が来訪が極めて少なかったこともあり、さらには東京オリンピック・パラリンピックの開催に向けて、外国の旅行事情のレベルに追いつく必要に迫られて必死になっていた、ということが近年の「観光立国」政策の根底にあったと見て取れるのではないでしょうか。そもそも立ち遅れていたことを普通の状態にするだけであって、特別に素晴らしいことをやっているのではないです。

そこで「インバウンド」ですが、私は早く「インバウンド」という言葉が無くなれば良いと考えています。国内の旅行者であろうが、外国人の旅行者であろうが、旅行者であることには変わりありません。それぞれの区別なく対応できる文化が育まれ、それに伴う制度が整備されるべきであります。制度ということでは外国人による不動産購入を制限することも必要でしょう。それでも、国内の旅行者だからこう扱う、外国人旅行者だから特別に対応するなどというのはナンセンスなことです。例えば、フランスでイタリア人が宿泊するからちょっと特別に対応しよう、とはならないでしょう。その意味では、乱暴な言い方かもしれませんが「インバウンド」という言葉は差別の言葉にもなり得ます。「インバウンド」の賞味期限は短ければ短いほど良いように思います。ただし、そこで焦ることなく一つずつ進んでいくことが肝要ではあります。

文化が成熟し、制度が整備されるのにはそれなりの時間、年月がかかることでしょう。それでもやがては外国人旅行者が「インバウンド」と呼ばれなくなり、一方で日本人も気軽に外国への旅行をすることで、国の垣根を越えて互いが民間レベルで交流し、かつ互いに理解を深められるようになれば、日本はより良い国になっていくように思います。

2023.03.07

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