前回の3月の投稿からおよそ3ヶ月が経っておりました。
ここしばらくは仕事がたいへん忙しく、まさに忙殺といった状況になっておりました。
加えてこの春にはWebサイトのサーバーの移転作業をしなければならなくなり、しかしその移転作業もなかなか思い通りに進まずに多くの時間を費やしておりました。片や、そのような中においてもソーシャル・キャピタルの勉強と研究にも短い時間であってもしっかり進めておりました。
ということで、なかなか文章が書けずにいた言い訳をしておりますけれども、どうにか元気に、少なくとも怪我や病気をすることもなく淡々と日々を過ごしておりました。
ソーシャル・キャピタルの勉強と研究と申しましたが、大したことをしていたわけでもなく、英文の論文を和訳しながら理解を深めるという作業をしているだけでありました。新たな情報を自分の中に取り込み、新たな知識を身につけていけていることには少なからずの充実感を持っているところであります。
仕事とは当面の収入を得る手段としての仕事の他に、ライフワークとしての仕事、つまり収入を得る得ないを問わず、生涯をかけて追求、追究するべきものというものもあると考えております。全ての仕事が金銭を得るものではなく、金銭以外の報酬、金銭以外の対価、それらを一言で言い換えるならば各種の「恩恵」を得る場合も仕事と捉えて良いものだと考えます。かくして「(金銭を得るための)仕事」が忙しくて「(ライフワークとしての)仕事」ができない、というお話になるのですが・・・なんとも理屈っぽいお話でございますね。たいへん失礼いたしました。
モヤモヤとした思考を続け、悶々とした環境にあって、どうしても自分の頭の中にある考えを世間に解放したいという欲が溜まりに溜まっておりまして、ここは文章を書くことで解消せねばならない。強烈な欲が溜まっているのでありました。
かくして、ここまで取り留めのない話を進め、さらにこの先も取り留めのない話を進めてまいります。
この作業は私にとっての思考のリハビリであります。
他人に話して意味のあるような内容にはならないかもしれません。実際には自分の思考回路の試運転、頭のアイドリングのようなつもりで進めてまいります。
読者の皆様にはできる限り苦痛にならないように配慮するつもりです。
さて、今回のテーマは地域づくりを進めるにあたって何をゴールにするべきかを考えてまいります。
地域がどうあるべきか、その理想形を追い求めてまいります。
地域づくりを考えるにあたって、単刀直入に地域は誰のものか、ということを確認しておきます。
地域は誰のものか。言うまでもなく、地域というのはそこに住む人々、地域住民がいて初めて成り立つものだということを忘れてはなりません。ともすれば私たちは地域に住民がいることが当たり前であるかのように思ってしまうことが少なからずあるように思います。しかし、その地域は私たちが地域を開拓、開墾して地域を作り上げていったのではありません。人がいる地域に生まれ、その地域の中で育ち、世代交代もありながら存続し続けている地域に住み続けているのであるから、または進学や転勤などによってそもそも人がいる地域に転居してきたのであるから、地域に人はいました。地域に人がいない地域、限界集落や消滅集落に転居することは、好き好んで田舎暮らしをすることがない限りはあり得ないものだと考えております。
だから、地域はその地域に暮らし、生活を営む住民がいて初めて成立するものだ、ということになります。地域が成立するためには住民が不可欠なのですから、住民が幸福で、自由だとは言えなくても少なくとも不自由でない社会であることが理想とする姿なのではないかと思います。
ところが、全ての地域に当てはまることではないのですけれども、時にはその地域の経済を牽引するような有力者がいたりすると、その有力者に気を使って、換言すれば忖度してしまうことが多々あるように思います。そうなると地域はその有力者の意向が強い地域になり、地域の住民の意見が反映されないようになってしまい、有力者の意見=地域住民の意見のように考えてしまうようになります。ときどき見受けられるのは、地方自治体が「(地方自治体の)議員は地域住民の負託を受けているのだから、議員の意見は地域住民の意見である」として、地域住民の要望よりも議員の要望を優先しがちになることです。地方議員の会社の業績が悪化してきたりすると、地方自治体に経済の活性化を求めてくる、ということはないでしょうか。このようなことがないか、今一度見直してみたいものであると考えます。
以上のことが地方自治体の批判と思われたならば申し訳なく思いますが、あくまでも地域にありがちな問題であるとお考えいただければ幸いです。
さて、上記のように地域の課題や問題が個人のものにすり替えられるようなことがあれば、当然その地域は暮らしづらくなるでしょう。そうなれば、いずれ住民は地域から離反してしまいます。初めは気が付かない程度に、しかしやがてはっきりと住民が減少していくのですが、そうなってしまうと回復までには時間がかかることでしょう。顕在化した時にはもう手遅れであることを意識して、地域に住民が多くいる間に将来の地域のあり方について考え、着手することが必要だということでしょう。
地域の人々が何を求めているか、そして将来の地域のあり方をどのようにデザインするかについては、結果を焦らず、地道に一つずつ進めていくことが大切であると思います。ローマも地域社会も同じです。一日にしてならず、です。
地域社会があるべき姿を考えると、適切な人口がいること、そしてその人口が維持されることが望ましいでしょう。それに伴って、生活環境の維持も求められます。地域の人口と地域インフラのバランスも考えていかなければなりません。地域内の経済のあり方も考えなければなりません、経済が活性化することが望ましいと考える人もいるでしょうし、競争が激しすぎると貧富の差が生じ、生活レベルの格差が拡大します。さらに、教育や福祉のあり方も考えなければなりません。
それでは、どのように考えればよろしいのでしょうか。
私は、「誰一人取り残さない社会」、「弱い人が弱いままで生きられる社会」を目指すべきと考えております。これらの言葉は近年よく聞かれるようになっているのですけれど、私自身まだ確信はないにしても、ある程度は間違いのないものであると考えます。
「誰一人取り残さない」ということで言えば、たとえば経済環境を改善、強化する時には同時に福祉環境も改善、強化することを考えるべきです。また、子どもの教育問題に注力するのと同時に高齢者の健康問題にも注力するべきです。一つの課題に着手する時には、その対極にあると思われる課題を取り上げて、同時に着手することで、全体のバランスを取ることが必要であると思います。
「弱い人が弱いままで生きられる」ということで言えば、富める者がより富み、貧する者がより貧するような社会にしないことが求められると考えます。富める者は自身の財産を自分だけのために使うのではなく、貧する者が社会参加ができるように支援するべきであり、一方で貧する者は社会参加を通じて社会に貢献できる環境づくりをすることが必要であると思います。マリーアントワネットが言った(事実は異なるようですが)とされる「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」ということにはならないのです。パンは富める者と貧する者が共に作り、皆が食べるべきなのです。
そのようにして、地域の誰もが生き甲斐を持てる社会を築くのが地域づくりの理想形であると、ここでは結論付けておきます。ただし、これにはご意見ご感想、さらにはお叱りも多数あるだろうと承知しております。私が最も恐れるのは今回の話が世間に晒されることなく、どなたにもご覧いただけないことです。ご意見やお叱りがあることは少なくともご覧いただいたということでありますので、これは大いに喜ばしいことです。良くも悪くも何らかのリアクションがあることが、少なくとも書き手としての私の生き甲斐に繋がります。
2023.06.29
コメント