多様性社会における生き方、考え方とは。

最近、というよりも近年というべきでしょうが、多様性(ダイバーシティ)が求められる社会になってきております。
多様性といって思いつくのは何でしょうね。人種、国籍、性別、年齢、障がい、宗教ということが挙げられると思います。性別の観点から性的志向も挙げることができるでしょう。宗教の面で考えれば政治思想も多様性の一部になると思われます。その他にも「多様性」の言葉通り、多種多様な要素があるでしょう。
この多様性の時代、多様性社会において私たちはどう考え、どう生きていけばよいのか、考えるべきことは大いにありそうに思います。
そこで、十分とは言えないかもしれませんが、多様性社会での生き方、考え方について思いを巡らせてみようと思い立った次第であります。

「多様性」を考えるためにはその対義語である「画一性」、「均一性」、あるいは「平準化」ともいうべきか、そのような物事について考える必要があります。そこで日本の歴史に思いを馳せてみると、近代化の教育に着目するべきと考えました。
そもそも近代日本の教育方針は国民の標準化でありました。明治以前には寺子屋などで、いわゆる「読み書き算盤」などをはじめとする独自の教育が行われていたわけですが、明治以降、富国強兵政策の中で教育政策が全国統一を目指すものとなった、というのは周知のとおりです。そうしなければならなかった理由は、もちろん欧米列強に追いつき追い越せという国家目標の達成のためであり、そのために必要だったのは均一化、平準化であったのだろうと考えられます。日本全国で共通となる言語である標準語の制定も必要となりましたし、文字、特にひらがな、カタカナも統一しなければなりませんでした。それを決して悪いことであると言っているのではなく、かつては地域ごとにあった「個性」を国として統一する必要があった、そうしなければならなかったということです。その過程において、標準的な人間像が構築されていったのではないかと思っております。その人間像に近づくために、人々は教育を通して知識を身につけていったのでありましょう。
加えて申し上げれば、教育は有能な兵士を育成するためにも必要なことでした。有能な兵士を育成するためにまた、戦前の教育カリキュラムには教練の時間がありました。「前へならえ!」「回れ右!」「休め!」「気をつけ!」などの軍隊の教練が授業として行われていた、ということであります。
私は、このような均一化、平準化の過程において日本国民が共通に有することが望ましい意識を形成する必要があったのだろうと考えます。それが日本国民としてのアイデンティティ、言い換えれば大和魂的な共通意識になっていったのだろうと考えます。

第二次世界大戦後、大日本帝国が日本国となり、本格的な民主化の時代を形成する時期にあっても、それまでの均一性、平準化の意識が有効でありました。その意識が結束力を生み、急速な戦後復興、そして高度経済成長を支えたのではないかと考えます。やがて三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や3C(ColorTV、Cooler、Car)などが各家庭に普及するようになり、やがてバブル経済を迎える頃には国民に「一億総中流」という意識が広がっていったですが、それも日本国民の均一性が大きな役割を担っていたように思います。

日本人は単一民族としての意識が強い国民性があったものと思います。そのため、国民に平準化の意識を持たせることは、多様性を求めるよりも容易であったのではないかと考えます。それが近年になって多様性が求められるようになってきました。単一民族意識が強く、平準化であることが心地良かった日本国民にとって、この多様性という意識は均一化、平準化とは正反対の考え方であり、なかなか浸透しないものと思っています。

しかし、標準的な多数派の一方で、少数派である人々も当然いるのであり、多数決などの民主主義のシステムの中で少数派は当たり前に疎外されていたのも事実であります。そのような少数派が発言力を持つようになったのは、バブル経済崩壊後のデフレ経済の中での急速な経済環境の変化に加え、インターネットの普及に伴って誰もが自由に情報を発信できるようになったことが大きな要因ではないかと私は考えております。経済環境の変化によって多数派が多数派ではなくなり、インターネットの普及で自分の考えを発信できるようになったことで、同調し賛同する人々が現れ、少数派が自身のアイデンティティを持つことができるようになったことが、昨今の多様性社会の時代に繋がっているように思います。

このように考えてまいりますと、多様性社会は時代の要請であり、私たちはこれまでの均一化、平準化を良しとしていた時代から大きく転換しなければならないのだということがわかってきます。明治維新と言われた時代から150年以上かけて維持してきた国民の平準化を多様性社会に変えていくのは想像する以上に大変なことであるに違いありません。まさにパラダイムシフト(=思想や価値観の転換)とも言うべき大転換が必要なのだと思うのです。それでも変わっていかなければなりません。今後はそういう時代になっていくのです。
では、これからの時代をどのように進んでいけば良いのか、ということを考えなければなりません。

私はここで一つの提案を申し上げたいと存じます。しかし、「お前が言わなくともわかっておるわ!」と言われても仕方ない程度の、当たり前のことしか申しません。
それは、日ごろから一つの物事を考える時にはその対極にある物事についても同時に考える習慣を持つべきであるということです。
多数派の意見を考慮する時には少数派の意見にも考慮することはもちろん、男性のことを考える時には同時に女性のことも考えること、都会のことを考える時には田舎のことも同時に考えること、経済のことを考える時にはお金のかからない交流も同時に考えることなど、常に対極にある物事についても考える癖付けをすることが大切なのだと思います。

多様性社会へのパラダイムシフトはこれまでの考え方をただ変えるのではなく、政治、経済、教育、文化、その他社会システム全体を根本から変えていかなければならないという、まさに一筋縄ではいかない、大変な大転換であると思います。これはすぐにできることではなく年単位で、あるいは数十年単位で変化していくものになるでしょう。しかし、思えば明治初期から今日まで、近代から現代まで150年を超える歳月を重ねてきたことを思えば、今後10年、30年、50年、さらに100年後にはまた新たな時代ができており、現代のことを昔という時代になっているのです。将来の世代に「あの時代の人たちが時代の土台を作ってくれたおかげで今があるのだ」と言ってもらえるように、今の時代、現在をどのようにしていくかを考え、実行していくのです。私たちにはそれだけの重大な責任があるのです。

多様性社会について考えているうちに、壮大な話になってしまいました。
これからも同様に、ワンイシュー(単一論点)の話が壮大な物語になるという、似たようなお話をすることがあるかもしれません。それもまた私の個性であります。きっと多様性社会になれば受け入れていただけることでしょう。

2023.07.06

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