私が“気になるスポット”。今回は斜里町にある「越川橋梁(こしかわきょうりょう)」です。
秋深まる9月下旬、斜里町の南東部にある越川地区にある越川橋梁に行ってきました。
越川橋梁は斜里町の市街地からおよそ15キロ南東にある越川地区の、さらに人里離れた場所にあります。私はまず知床斜里駅近くの道の駅・しゃりに行き、そこから国道244号線を標津町方面に向かって車を走らせていきました。
この日は9月の下旬。秋深まりゆく中、抜けるような青空の下、快適なドライブを楽しんでおりました。
市街地を離れるとすぐに田園地帯が続き、しばらく走っていると越川地区に入りましたが、目的の越川橋梁はさらにその先のようで、このまま根北峠まで行ってしまうのではないかと思った頃、木々が生い茂るその中にいきなり、まさに忽然とその姿が現れたのでありました。
おそらく注意して走っていなければ気が付かなければ通り過ぎてしまっていたことでしょう。
越川橋梁は国道244号線が通る部分は撤去され、2つに分かれております。そして、その片方の橋脚の下には小さな、しかし十分な駐車場があります。そこに車を停めまして、さあ、橋のそばまで近寄ってみることにいたしましょう。

橋脚の周りは杭と鎖によって仕切られており、「きけん」と表示が掛けられています。たしかにいずれは崩れてきそうな雰囲気もあります。無理に近寄らずに眺めてみることにいたします。

橋脚にこのような銘鈑が嵌め込まれておりました。

登録有形文化財 第01‐0006号とのことです。
文化庁の国指定文化財等データベースを見ましたら、名称は「旧国鉄根北線越川橋梁」であり、 登録年月日は1998(平成10)7月23日、登録告示年月日は同年8月4日となっておりました。
しかもこの銘鈑には「この建造物は貴重な国民的財産です」と記載があります。
越川橋梁はあまり知られていないように思います。皆さんこの機会にぜひ覚えておいてくださいませ。
越川橋梁は正式名称を「第一幾品川橋梁」といい、1939(昭和14)年に着工し、翌1940(昭和15)年に完成したコンクリート製の10連アーチ橋です。完成時の長さは147m、最大地上高21.6mであり、北海道内で戦前に作られたコンクリートアーチ橋としては最大のものであるそうです。
この越川橋梁は1940(昭和15)年に完成したものの、鉄道は敷設されずに翌年には工事が中止となり、さらに戦後、根北線の一部が開通してもここまで線路は延びることなく、「渡らずの橋」となって、結局1953(昭和48)年には国道の改良工事により橋脚が2本撤去されて現在の姿となったとのことです。
当初、越川橋梁の建設と根北線の延伸によって越川地区の豊かな森林資源の開発、入植地の拡大、農産物の輸送といった地域の開発が期待されておりましたが、時代の趨勢とともに国防目的が前面に打ち出されて、根北線は軍事目的の意味合いが前面に押し出されたようです。そして、軍事体制下で鉄不足となり、越川橋梁は鉄筋を用いず、また竹や木材などの心材をも使わない独特の工法で建設されたようです。したがって、橋脚が撤去解体されたその断面を見ても鉄筋が入っていないことがわかります。

また、橋脚の下にはこのような解説の看板が掲げられております。

「第一幾品川橋梁(越川橋梁)
この橋は旧国鉄根北線のために昭和14年に着工完成した10連アーチ橋で、全長147m、高さ20mあり、当時のコンクリート建築技術を伝える建造物として、また戦時下の過酷な労働を伝える歴史遺産として貴重なものです。
根北線は昭和32年に斜里~越川間が開通いたしましたが越川橋梁までは線路が延びず、昭和45年に廃線となっています。その昭和48年の国道244号線の拡幅工事のため橋脚が2本撤去され現在の姿になりました。
斜里町」
先に書いたものと重複する内容ですが、この解説の中にある「戦時下の過酷な労働」について、この越川橋梁に限らず、北海道、特に東北海道の道路や線路の建設にあたっては囚人の強制労働によって建設が進められた路線があり、またタコと呼ばれた日雇い労働者もまた、囚人と同様の非人道的な扱いを受けて、過酷な条件下での危険度の高い難工事に従事していたようです。資料によると、根北線の工事だけでも11名の殉難者がいたという報告があったそうです。その中には越川橋梁の建設での殉難者もいたことだろうと思われます。
さて、たくさんの人々の、様々に複雑な思いが詰まった越川橋梁に、改めてしっかりと向き合ってまいりましょう。

国道244号線を挟んで西側には橋脚が2本の部分があります。木々が生い茂る中にそびえるその姿は大型の門のような形になっておりますが、崩落の危険もあるためか、下をくぐることはできません。
そして、もう一方の国道244号線を挟んで東側には、橋脚が6本ある見事なアーチ橋がございます。

こうなると少し近づいて見てみたくなるものです。
鎖の仕切りの脇には坂があり、柱にロープが括られていて坂の下の方に行けるようになっておりました。かなり滑りやすい坂ではありますが、そこを降りてみます。

坂を下りてみましたが、上まで見えません。冬になると木の葉が落ちてもっと見えるようになるかもしれません。ただし、雪があれば足元がさらに滑りやすくなるでしょう。十分に注意する必要があります。
橋脚のそばまで下りてみました。

下から見ても圧巻です。
橋脚の下部の方はこのような造りになっておりました。

これは橋脚の南側なのですが、三角形のコンクリートとの塊で補強がされているようになっております。北側はこのような造りにはなっていません。こちらの方が低くなっているのか、それとも地盤が緩いのか、何らかの理由があって、このような形になっているのでしょう。
そして、これが戦前の、昭和初期のコンクリート建築技術によるものであって、80年も前の建造物であり、鉄筋を使わず、心材もなく、型枠だけで造られたのだろうと思うとさらにそのスゴさを見せつけられるようです。むしろ、ここに線路が敷設されて列車が通っていたならば、すでに崩れていたかもしれません。使われなかったことで残った「渡らずの橋」。これからもしっかり残していくべき、歴史を語る文化遺産であると思われました。
最後に、越川橋梁を動画でご紹介します。
越川橋梁を地域開発への期待と時代の趨勢との狭間で翻弄された先人の労苦を語り伝える文化遺産として、これからも大切に保存されるように願う私なのでありました。また、皆様にもこの機会にぜひ越川橋梁を知っていただき、訪れる機会を持っていただければと思っております。
2021.09.28
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